『数学の精神』そして『数学とは何か?』

 

『ユークリッド原論』は世界中の言語に翻訳され、聖書と並んで2000年以上の大ロングセラーの書物となり、現在に至っている。

数学は、歴史的にいろいろな経緯をたどるが、この『ユークリッド原論』から受け継いだ構成は変わっていない。つまり、最初に「定義」を与え、それだけから始めて、「公理」だけを使って、論理的に「定理」、「命題」、「公式」を証明するのである。

「数学の論理」は、「公理」として成り立っている。この体系が「数学の理論」となる。問題を解くこと以前に、「数学の理論」がある。これが、算数ではない「数学」の命(いのち)の部分である。「数学」は生きている。「数学の理論」は、一種の数学言語によって記述される。それは、「数学用語」と「数学論理」である。つまり、「定義」と「公理」である。これが、数学の「基本の基本、出発点」である。決して日常の常識から始まるものではないということである。このことが理解できていなくて、数学が理解できるはずがないのである。

非常に聡明な文系の方が数学を苦手とされている場合があるが、この原因の一つが「数学的判断」よりも「常識的判断」によって考えているからではないかと思うことがある。数学は誰もが認めることのできる「自明」のことから出発している。しかし、「自明」というのは、「日常的な常識」ということではない。数学的思考に、「日常的な常識」は必要ない。むしろ仮定された事以外の「日常的な常識」を用いて結論を出してはならない。

数学は、「定義」と「公理」つまり、「数学用語」と「数学論理」だけから出発する。そしてそれだけを使って、「命題」を導き出す。どんなに常識的に思えることであっても、仮定された事以外の操作を交えてはならないのである。しかし、それだけなのだから、その「自明」として決められた「数学用語」と「数学論理」さえ理解できる限り、数学を理解できないということはあり得ないはずである。もし数学を理解できないと思っているとしたら、自分から理解することを止めているか、または他人から間違った常識を埋め込まれているかのどちらかである。

「数学はすべての人に理解できる、すべての人のための学問である。断じて特定の人のものではない。」このことは知っていて欲しい。

さて、「数学の基本とは何か?」

一言で言えば、「数学用語」と「数学論理」である。そしてそれは、『ユークリッド原論』から2000年以上も受け継がれてきた『数学』のDNAとでも言うべきものである。

「数学用語」と「数学論理」を決めて、それだけを用いて「命題」を導き出す。そして「命題」を積み重ねて、「数学大系」が構築される。こうしてできあがったものが、『数学』である。

そして『数学』は否定され、新しい『数学』が作り上げられ、再び『数学』は否定され、またさらに新しい『数学』が作り上げられ、これを繰り返しながら変遷し、拡張されていくのである。

これは、「数学の歴史」であるだけではなく、あなたや私の「数学の認識」に起こる変遷そして発展形態である。

『数学の精神』は、「数学の認識」を動かす意志である。

『数学とは何か?』

この答えの定まらない疑問は、さらに『数学の精神』を動かす。また、逆に『数学の精神』が『数学とは何か?』に対して、そのときの一つの答えを形作る。